夢路〜序〜
ひたりひたりと、絶えず水の滴る音が響いていた。決して激しくはないその音は、しかし同時に決して途絶えることはない。だがその源泉を探そうとしても徒労に終わる。ごつごつとした岩肌にその音はぶつかりそして跳ね返り、絶えず反響を繰り返す。ろくに日も差さないその世界は、死に絶えてもおかしくはないというのに、微かな光の恩恵を受けて、所々に緑色のぬめりを貼り付けている。しかしその光の恩恵は、陰鬱な空間に光明を灯すことはない。更なる暗さを演出するだけだった。
どこかからか吹き抜けていく風が、水音と共に呻きとも喘ぎとも付かぬ声を運ぶ。少なくとも幸福を歌わぬその声によって、その場は完全なる魔界と化していた。
訳ありの洞窟。その入り口に程近い場所には、幾重にも縄がかけられ、ただ見ただけでは意味も分からぬ札がやはり無数に貼り付けられている。外界と魔界とを隔てるその境界線上――魔界の入り口に、二人分の影があった。
二つ、と称するべきかもしれない。或いは二体と。
何故と言って、
「……今宵も同胞の声は、収まらぬな」
「兄上……」
青年は、己を兄と呼んだ少年に儚く微笑み、手元の香炉に新たな香木を摘みいれる。白く煙が立ち昇り、香が風に乗って洞窟の奥へと流れていく。
微かに、声が薄らぐ。微かに、しかし確かに。だがそれがただ一時の事なのだと言うことは、魔界の入り口に座した兄弟の表情を見れば誰にでも察しが付いただろう。憐憫と焦燥とを同時に乗せたひどく複雑な表情は、容貌そのものはあまり似ていないその兄弟をそっくりに見せていた。
洞穴の奥から響くその声を同胞と呼ぶ。
それはその兄弟が人ならざるものであることを示している。
人ならざるその兄弟は、鞍馬の、嘗て天狗と呼ばれた男の構えた庵の程近く、自然に出来た洞窟の守人を勤めていた。
結界によって封じられたその洞窟の中には、陰陽師によって呪縛され連行された数多の平家所縁の怨霊達が犇いている。
決して表には出せぬ――出したが最後白朝がここぞとばかりに黒朝を攻撃してくるだろう――平家の暗部を、その暗部の内にありながら未だただの怨霊と成り果てることの出来ぬ兄弟が守っている。
平経正、敦盛の、既に命費えた兄弟が。
陰陽師の手にも負えぬその混沌を、或いはただ一人救えるかも知れぬ神子の目覚めを、待ちながら。
打ち捨てられた〜番外。将臣×朔になる筈のものの序章。
生存キャラは全登場の予定。