夢路・参





 明白に流れ出る瘴気に、朔は眉を顰めた。
 山中では、平地よりも季節の巡り――春の訪れは遅い。ぬかるむ大地は隙あらば歩みを留めようと絡み付いてくる。綻んだ木の芽も、未だ開花を迎えてはいない。閉ざされた眠りの季節の出口に佇んでいる。だが、その気配は単に眠りの季節が齎すものとは到底思われなかった。
 どんよりと、淀んだ空気が、洞穴に足を踏み入れぬ先から、はきと感じられる。目覚め前のまどろみに、温んだ空気が地をぬかるませる、当たり前の淀みでは有り得ない。それは空気そのものが重く淀んでいる気配だった。それを瘴気と呼ぶのだと、誰に教えられるでもなく、朔も、そして朔に同行する元八葉達も知っていた。
「……これは……」
 思わず口元を押さえ、足を止めた朔に、将臣もまた歩みを止める。伺うように腰を折って覗き込んでくる男に、朔は微笑を閃かせることは出来なかった。例えそれが気遣いから生まれる硬いもの程度であったとしてもだ。
「感じるのか?」
「感じぬわけにも行きませんでしょう」
 朔、と、躊躇いがちに譲が呼びかけてくる。それに含まれる意図を察知して、朔は静かに頭を振った。
「感じはしますが……それは皆様とて同じことでしょう。霊力を持たずとも、これだけの気配なら誰だとて分からぬ筈がありません」
「あせんなよ、譲」
 譲の肩を、ヒノエが軽く叩く。譲は苦い顔のままそれでも分かっているよと答えて、ヒノエを振り払うことはしなかった。
 朔はその光景に違和感を感じて目を瞬かせた。その正体は直ぐに知れ、朔はそんな場合ではないと知りつつも微かに口元を綻ばせた。その微笑に気付いた将臣に、ん? と顎で促され、朔は微笑を苦笑へと変えた。
「知らぬ間に随分と時が過ぎていたのねと、思っただけです」
「そりゃまあ……何で今更実感してんだ?」
 うっかりと本音を漏らした将臣は、些か強引に話題を転換した。朔はそれに気付いたが、何を意見するでもなく、柔らかい眼差しを、ヒノエと譲へと向ける。
「だっていつの間にか、ヒノエ殿が譲殿と肩を並べておいでだわ」
「あのね朔ちゃん。いいたかないけど、オレはもともとこいつより年上で、こいつほど青くは無かったよ」
 親指の先で譲を指し示すヒノエに、譲は苦虫を噛み締めたように顔を歪める。それでも反論しないのは、自覚があったからだろう。朔は小さく頭を振ると、そうではなくてとヒノエと譲を見比べた。
「身の丈が、譲殿に……そうね届くとは言えない様だけど、近付いたでしょう?」
 朔とさして変わらなかったはずのヒノエの目線は、今はどちらかと言えば譲と変わらない。ヒノエのからかいや忠告には過剰に反応してばかりだった譲は、それをあっさりと流してしまえるようになった。少年だったヒノエは、身の丈を伸ばし青年となり、そして朔からすれば年齢よりも幼かった譲もまた、内実を落ち着け青年となった。
 どちらも不快な変化ではない。それが知らぬ間の出来事であることが寂しくもあったが、不快な変化を遂げられているよりは余程良かった。
 母親のように微笑む朔に、ヒノエと譲は顔を見合わせて、互いに互いを肘で突付きあった。面映いような気分なのだろう。朔は微笑んで、そして居住まいを正した。
 もう少しその変化を実感して楽しみたい気分も無いではなかったが、ここへは譲とヒノエの成長を確かめるために赴いたわけではない。
「変えに参りましょう。そのまま捨て置けば決して好ましくない変化しか遂げられぬもの達を」
 瘴気は目には映らない。だが朔の目は正しくそれを見据えているように、一同には思われた。



 一行を見送った二位之尼は、手元に残った息子の訪問を受けていた。
 涼しい顔で己の前に座したまま、言葉を発しない息子に、時子は小さく息を吐き出した。何某か用があってこそ訊ねてきたのであろうに、それを口に出すことを躊躇う。言い辛い事柄だと言う訳ではないのだろう。ただ『己』として、口に出すのが憚られる事柄なのだ。
 己が信じる、己。その己を演出することがこの息子の矜持だとは分かっている。分かっているがしかし、今はそれは時子の目には好ましいものとしては映らなかった。
「重衡殿」
「……はい、母上」
 平重衡は、一拍の間の後に、一点の曇りも見受けられない微笑で母親に応じる。時子は今度こそ、これ見よがしの溜息を落とした。
「気にかかっておいでなら、そう言われるが良かろうに。この母以外、この房には誰もおりませぬ」
「私が、何を気にかけていると?」
「母はそなたの賢明さは尊いと思っておりますが、賢明である己を示すためだけに己を偽るのは、決して賢明は言えぬとも、思います。そなたはそれを……」
 恥じていたのではなかったか。
 その言葉を時子は敢えて告げなかった。それは時子にも重衡にも、同様に鋭利な刃物にしかならぬ言葉だった。
 己を偽らず、己を貫いて散ったのは、重衡にとっては兄であり、時子にとっては息子だった。
 重衡は口元を扇で隠し、ゆっくりと頭を振った。それは諦観の様でもあり、覚悟の様でもあった。そして重衡は口元を晒さぬままに、ほつりと言った。
「……姫君の事も、還内府殿の事も、気になると言えば確かに気にはなりますが、あの方々に私等の心配は不要でしょう。私が最も気にかかるのは、あの方々のことではないのです、母上」
「……経正殿と、敦盛殿のことですか」
「それもまた、違うのです母上」
 時子は怪訝そうに眉を顰めた。
「母上、母上は私が己を偽ると言われた。……認めましょう、私は今を持って尚己が取るに足らぬ、臆病な男であると認める事を拒んでおります。知りながらも、私は認める事が出来ません……そう、知りながらも、です」
「……何を危惧しておられるのです?」
「私が危惧しているのは……同じく認める事を拒んでいる者のことです」
 その声の真摯さに、時子は思わず息を呑んだ。
 決して少なくはない時間を、共にこの黒御所で過ごした。その時間が、重衡の言葉が誰を指しているのかということを、時子に正確に悟らせた理由だった。



 封された洞穴が視界に入るなり、朔は足を止めて着物の襟を掴んだ。身を庇うように後じさるその姿に、将臣は慌てて朔の様子を伺った。
 震えを隠すためだろう。己の手を胸元で組み合わせ、唇を引き結ぶ朔の顔色は、誰がどう見ようとも蒼白だった。吐息とも苦鳴とも付かぬか細い声が、唇からではなく喉の奥から絞り出されている。引き結ばれた唇は、その音を外に逃がさなかったが、それでも震える声帯の波動は、微かに将臣の耳朶を刺激した。
「……朔……」
「こんな……こんな……」
 朔は身を竦ませ、傍らの将臣に身を寄せた。躊躇うことなくその肩を抱き寄せた将臣は、朔の視線の先――追うまでもなくそれは一つしか有り得ない――を凝視した。陰陽師によって幾重にも封印されたその洞穴は、生命あるものならば自由に出入りが出来るが、無いものには出る事も入る事も叶わないと聞いている。そこは最早人の住む世界ではなく、読みと言っても過言ではないのだと、嘗て様子を伺いに来た将臣に、その洞穴の番人たる生命なき兄弟は言った。
「……大丈夫か? 入れる、か?」
 抱き寄せた朔の肩が、びくりと反応する。過剰にさえ思えるその反応――怯えだ、明らかに――は不憫だったが、同時にだからこそ将臣に一つの確信を齎した。それはこの事態において、黒朝を預かる一翼としては喜ぶべきな。
「おい、将臣……」
 ヒノエが真剣な面持ちで将臣を促す。それに将臣は頷いた。蒼白の顔でそのやり取りを眺めていた朔もまた、小さくではあるが頷いた。

 聞こえる。

 閉じ込められ、互いに互いを傷つけあい、でありながら既に命なき身では再び死する事も叶わず。その痛みと苦しみが更なる怨嗟を呼び、そしてその怨嗟が皮肉な事に怨霊であるその存在を更に確たるものとして強化する。

 苦しい。助けて。もう嫌だ。憎い。恨めしい。



 ――殺して、殺して、殺して、殺して……楽に、なりたい――



「……こんな……こんな酷い……」
 朔は洞穴から流れ出し、流れ込んでくる膨大な感情に、呟いた。恐ろしいではなく、酷い、と。
 彼らに何の罪があったと言うのだろう。死の瞬間に、生きたいと、もっと生きていたいと切望するのは当然の事。その命を奪った相手を憎む事も恨む事も、当たり前の感情に過ぎない。
 そのささやかな願いを、ささやかな恨みを核として、『生産』された怨霊達。大量に『生産』され、歪められ、自然に五行に帰る事も叶わずこうして閉じ込められて、苦しみを苦しみで糊塗しながら、大きな苦しみとなって己を強化して――
 そんな苦しみの無限を味わうほどの、どんな罪が。どんな罪なら、この苦しみが相応しい罰だと言えるというのか。



 神子、この声が聞こえるか?
 この声さえ、私は直に失い、ただの力と変わるだろう。その前にどうか聞いて欲しい。
 私は龍。神子の龍。この時空に在る、ただ一つの龍の欠片。
 神子よ、わが神子よ。朔――お前もまた、この時空にある、ただ一人の神子。
 それが何を意味するのか、お前は知らねばならない。
 神子よ。理を曲げ、捨ててさえ私の愛した、ただ一人の神子よ。
 私は最早嘗ての私と成り得ない。そして私の対もまた、失われた。私以上に、私の対は失われた。お前の対と同じく。
 私は力に残されたこの『私』の影法師。私の対はその力さえ、この時空に最早ない。お前の対と同じく。
 この時空から、私は失われた。全き私の戻る術もまた、失われた。
 私はこのくびきから解き放たれれば、再び生じるだろう黒い龍。それは神子を愛した愚かな私と同じで異なるもの。新しき龍。
 だが。
 私の対のくびきは最早この時空に決して戻らない。真白き龍が、陽気の元に生じるまでには、人の世の果てまでも続くほどに、長く長く、永久なるほどに長くの時を要するだろう。
 神子よ、そして私の護るこの時空よ。
 この地はこの時空は――取り戻せない。

 ――この地は神を失った地。この時空は神を持たぬ時空と、成り果てている。



 理は壊れ、地は乱れ、五行は回らず、滅びを迎える。
 この洞穴は、正しくその姿だ。
「……望美が、いてくれたら……」
 ほつりと、朔は落とすようにそう言った。或いは望美ならと、そう考えて朔は次の瞬間に凍りついた。
 望美だけが存在していても意味はない。力を与える『神』なくば、如何な白龍の神子とて、何程も事は成せない。
「この地は、神を失った地……いいえ、違うのね」
「朔?」
 最早己の足でしかと立つ事も出来ぬ朔を引き上げるようにして抱いていた将臣が、不振そうに問いかけてくる。朔は呆然と、今この時思い知った事実を、口走った。
「違うの、だわ。この地は神を失った、喪失した……それは事実ではあっても、違うの」
「どういう、意味だい?」
 問いかけつつ、ヒノエは黙り込んでしまった譲を横目で伺う。
 恐らくは朔が口にしようとしている事実を、譲は弁えている。疾うの昔に知りながら、それでも認める事を拒んでいる。
 譲はごくりと喉を鳴らした。そしてその事実を、朔は口にしようとしている。



「この地が、神を喪失させてしまったのでは、ないのね。この地は――神を失ったのではなく――神に、捨てられたの、ね」

 黒龍は最後まで神であり続けた。己を生じさせてはならぬと、己の神子に釘を刺しまでした。だが――

「白い龍神は……この地を、捨てたの、だわ」



 残酷なほどに、それは事実だった。




打ち捨てられた〜番外。事実確認と言いますか。
10話で収まるのか、不安ってか、多分無理。