夢路・弐





 朔は己の手を見つめて沈黙した。信じられない思いで、ゆっくりと指を折り、また広げる。血の通うその指に、五行の力もまた通っている。それを感じ取ることが何故か出来る。
「……どういう、事なの」
 途方に暮れた朔の瞳は、彷徨うことなく頼る先を指した。向けられた視線に将臣は苦笑し、向かう視線の先に一同は薄く微笑む。
 連なる時は、決して幸福な物語を刻んだわけではない。それでも良かったと、そう思える事実が存在する。四季は冬を除いては回らない。だが、春を除いてもまた回りはしない。
「覚えてしまった能力は消えないって、事らしいんだよな」
 なあと、将臣は弟を見やった。有川譲はこほんと小さく咳払いを落とし、兄の視線に答えて口を開く。
「俺も確りと理解できてるわけじゃないんですけどね。兄さんはもっと理解できてないみたいだから」
「おい、コラ」
「本当のことだろう。兄さんは仕組みなんかどうでもいいんじゃないか。出来るなら出来るのかそうかで片付ける癖に、睨まないでくれよ」
 兄のささやかな抵抗を一息に黙らせて、譲は朔に向き直った。そのささやかなやり取りの為だろう、蒼白だった朔の顔に僅かばかりの余裕が戻ってきている。
「出来なくなったことも、勿論あるんです。俺なんかは、主として霊力に頼ってたって思えるような事は、もうほとんど出来ないんですよ。そもそも俺の霊力が低かったってことなんでしょう」
「オレもだね。多少の火は扱えるけど多少に過ぎない。火傷なんかしてないだろ朔ちゃん?」
 ヒノエの言に、朔は傷一つ無い指をもう一度確かめるように折った。相殺したとはいえ咄嗟のことだ。嘗てなら多少の傷は残っていただろう。
「私が水気を扱えたのも……?」
 譲は受け売りなんだけどと前置いた。
「陰陽師ってものは存在してるだろう? あの人達に、龍神の加護はないんだ。だけど、彼らは術を行使できる。それはそもそもの霊力と修行によるものなんだそうです。一切の霊力を持たない人間なんていないって。それは、俺達にだって、例外じゃない」
 龍神の加護によって、霊力は水増しされていた。そして玉や直接の加護はその行使の仕方を、神子や八葉に教えた。
 水増しされた霊力が消え去っても、生来備わっていた霊力は消えない。
 そして霊力の扱い方は、彼らの魂が覚えてしまった。
「多分な、武器の扱い方なんかと同じことなんだと思う。身体が覚えちまえば忘れないだろ」
 俺も大したことは出来ないんだけどなと、将臣が肩を竦めて見せる。自嘲的なその仕草に、朔は表情を改めた。
「だから……私に目覚めて欲しかったのですね?」
「ある意味では、そうだ」
 居住まいを正した朔に、将臣もまた真摯に返す。
 利用する為だと宣するようなその態度に、慌てたのは譲だった。
「いや、あの、朔? 兄さんはなにもそれだけが目的だったってわけじゃ」
「存じております。……嫌というほど」
 安心させるように微笑みながらも、朔はきろりと将臣を睨み据えた。嫌と言うほど思い知らせた身としてはその視線が痛い。流石に明後日の方向へ、将臣は視線を泳がせる。全くと呟いた朔は、尼君様と、時子を呼ぶ。
「承りましたと、そう言わねばならぬのは承知しております。ですが、請け負ってもご期待に応えられる保障はありません」
「それこそ存じております」
 時子の声に、緩みかけた場が再び引き締まる。
「分からぬと、言われるのであろう?」
「その通りです。怨霊の声を聞き取る事も、鎮める事も――それが神子であったからこそ備わっていたものなのか、或いは魂に既に刻まれてしまったものなのか。はきとは申せません」
 それは怨霊を前にせねばわからぬことだ。確かにと、朔は視線を天井へと向ける。何かを透かすような遠い目に将臣はぴくりと眉を跳ね上げる。
 何をそこに見ているのか、それが分かるからこそ。
「私は傍らに黒龍が無くとも、怨霊の声を聞き取りました。鎮魂も、不可能ではありませんでした。ですが傍らになくとも、あの時未だ龍神は京に……この時空にと言うべきでしょうか、在りました」
「……今は」
 言葉を切った時子に、朔は頷いた。
「黒龍が、消滅の前、私の夢で告げたことです」



 この地はこの時空は――取り戻せない。

 ――この地は神を失った地。この時空は神を持たぬ時空と、成り果てている。


「この地に、神の加護はないのです」



 譲は弓を引き絞り、放った。空を裂いた弓は、的の端に突き刺さり、ビインと振るえる。狙ったように中央を外れた矢が、他にも何本かその的に突き刺さっていた。
 愚かな龍神は、己の神子の為だけに、守護すべき地を捨てた。己の力の源を使い、己の神子だけを逃れさせた。
 幼い真摯さと純粋さで――幼い愚かさで、神は守護すべき地よりも神子一人を選んだ。
 恨むなと、誰に言えるだろう。
 実際に、冗談じゃないねと、ヒノエは言った。
『何のために神子を求めたのか、それさえ理解してなかったって事だろ。物事の順番を取り違えた神なんて冗談じゃないね。それに八葉に選ばれて――ま、それも光栄と思ってたわけじゃねぇけど――その上捨てられた。これじゃ光栄どころか、屈辱だろ』
 それは人の身勝手な理屈ではないのかと、譲はヒノエに反論した。
 守護を当然のものと考える、人の身勝手だろうと。神だとて、大切に思うものはあるだろう。それが移ろうこともまた、あるのだろう。人の心もまた移ろうものなのだから。
 守護すべき地への思いが、己の神子への思いに負けてしまうことも、またあろう。神だとて。それを責めるのは、人の身勝手なのではないのかと。
 何事か言いたげにしていたヒノエは、しかし肩を竦め『ま、そういう考え方もあるのかもね』と会話を打ち切った。
 納得して引き下がったわけではないことは明白だった。
 当たり前だ。譲だとて、その理屈に幾らも反証を挙げられるのだ。
 自由には責務が付き纏う。求めたから、愛したから、それで責務を放棄していい等という理屈は通らない。神にとっての責務とは、無論守護を意味するのだろう。
 そう、その感情は責められまい。愛するなと、大切に思うなと、そんなことは誰にも言えない。
 だが、それ故に責務を放棄する事は許されない。
 幼かったあの龍神は、許されないのだ。その選択を、誰にも肯定されない。
 ヒノエが引き下がったのは、譲がそれを弁えた上で、無理に白龍を肯定しようとしている事に気付いたからだ。
 譲は顎に落ちてきた汗を手の甲で拭い、弓を下ろした。
 幾度打っても、恐らく的の中央に矢は当たるまい。譲の惑いを、矢の軌道は映している。
 朔が口にした事実は、事実であるが故に譲に突き刺さっていた。
 だが、それでも。
 分かっていて尚、譲は肯定したいのだ。
 思い人を生かす選択をしたあの龍神を。春日望美を助けた、あの白く幼い龍神を。
 肯定して――
「譲」
 低い声で名を呼ばれ、譲はびくりと身を竦ませた。悪戯を見咎められた子供のように、恐る恐る振り返ればそこには見慣れた己の兄の姿がある。
「程ほどにしとけよ? 明日に響くだろ」
「明日……? そんなに早く?」
 明日と言う言葉に、譲は目を瞬かせる。説明するまでもなく察してしまった弟に、将臣は顎に手を当て、困ったように笑う。
「確かめなきゃ始まらないってな。言い出したら聞かねぇよ」
 だから他の房で休めっつって追い出されたとこだと、笑い混じりに将臣は言った。だが、言葉の軽さとは裏腹にその様子にはふざけたところがない。
 明日、朔は平家が怨霊を封じた洞窟へと出向く。ただの遊山ではない。洞窟の中に、怨霊の只中へと向かうのだ。襲われない保障はなく、そして護り切れるだけの能力を発揮できる保障もまたない。ふざける余裕など、どこにもありはしないのだ。
 固い顔で、譲は頷く。
「兄さん」
「うん?」
「……兄さんは、恨んでる?」
「何をだ?」
 答えるために必要な情報を求めてくる将臣の目は、中央を悉く外して矢だらけになっている的に向けられている。意地が悪いなと、譲は苦笑した。
 分かっていて、聞いてきている。
「俺は、それでも恨みたくないんだ。神が失われてしまった理由を――あの人に負わせたくないから」
 白い龍が愚かな選択をしたのは、己の神子故。春日望美、故。
 将臣は的を見つめたまま、言った。
「一途なのは悪いことじゃねえよ。しつこいって言っちまえばそれまでだけどな。それに関しちゃ俺も人のことは言えねぇしな。けどな譲」
 一旦言葉を切った将臣は、殊更にゆっくりと的から視線を外し、譲を見た。
「お前が認めたくないのは、別のことなんじゃねぇのか?」
 譲は息を呑んだ。



 多分それもまた、分かっていることだった。




打ち捨てられた〜番外。能力についてとか。
悩む譲書くの好きだなあ私。