夢路・壱





 物語は、めでたしめでたしで結ばれる。だが、それは物語の終わりではあっても、総ての終わりではない。時は流れ、世界は回り続ける。時には果ては無い。何れ世界が終わってしまっても、終わった後に時は流れていく。

 それは一つの物語の後。
 結ばれた結末の、その先にある物語。



 誂えたような季節だった。
 春を告げる鶯の声が、整えられた庭園のどこかからか聞こえてくる。温んだ空気の中で、淡く咲く白い花と、薫り高く濃く咲く赤い花が、目覚めの季節を祝している。
 先の戦いの後に眠りについた黒龍の神子――梶原朔の目覚めは、その誂えられた季節だった。
 朔は薫る風の通り抜ける房の中央に座し、上座にある老女の視線に応えて顔を上げていた。見えた回数は片手の指で足りるほどしかない相手だったが、その印象の強さは回数などにはくすまない。
 二位之尼――時子は、少しばかりの緊張を表す朔の顔を見つめ、やがてふわりと微笑んだ。
「ようお目覚めになられました、神子殿」
 呼びかける声音も表情を裏切らず、柔らかい。朔は時子の言葉に深く頭を垂れた。
「ご心配をおかけしましたこと、深くお詫び申し上げます。……いえ、そも、源氏方である私をこの黒御所で匿って頂き、お礼の言葉も御座いません」
「それは私が何をしたというわけではありませぬ。この尼が認めずとも、将臣殿はそなたを捨て置きはしなかったでしょう。私に礼は必要ありませぬ」
 ふふと含み笑った時子は、朔の傍らに座した『腹を痛めぬ息子』をちろりと眺めやる。視線を投げられた息子――有川将臣は憮然として視線を逸らした。そもそも分が悪い。本来なら朔が目覚めて直ぐに行われるべきであったこの対面が、多少不自然に遅れた理由は、将臣に起因する。時子に責める意図があろうが無かろうが、臑に傷持つ身としては、その視線の意図を勘繰らずにはおれない。それは朔も同じようで、時子の視線に居心地悪そうに身じろぎを繰り返している。そしてそれは、時子にはお見通しの事柄だった。
 如何にも若い、時子からすれば幼くさえ思える様子を微笑ましく眺めて、ややってから時子はさてと居住まいを正した。
「神子殿はどこまでお聞きになられましたか」
「黒朝と白朝が成ったと言う事、ここが京であるということは、聞き及んでおります」
「左様、我らは懐かしい六波羅に戻り、今や源氏と同じ地で、違う帝を建てて共存しております。――それが表の事情に過ぎぬことは、お分かりになられるか」
 厳しい声音に、朔は咄嗟に傍らの将臣を伺う。将臣はそれに頷きを返した。
「話しちゃいませんが。分からないほど、おめでたい姫でもありません、朔は」
 信頼を示すその言葉に、時子は口元に手をあて、声を立てて笑った。
「話すほどの時が無かったとも思えませぬが。……お若い。仲がお宜しい様で大変に結構」
「尼御前!」
「あ、尼君様!」
 赤面した一対の男女が、ほぼ同時に悲鳴を上げた。



 誰かを偲ぶように、それは六波羅に新たに築かれた。
 御所と呼ぶには小ぢんまりとした、しかし館と称すには余りに大きなそれを、黒御殿、或いは黒御所と称する。対する白御所もまた同じような作りで、それもまた何かを偲ぶように六畳堀川に新たに建てられていた。
 嘗ての京御所はその二者の会談が行われる為だけの場所として、建立されなおした。以前のものは焼け落ちていた。
 正しく呉越同舟だが、だからといって日々荒事が繰り返されているわけではない。
 それは新たな秩序の表面。源氏にもそして平氏にも、その不本意な呉越同舟を受け入れねばならぬ裏面が存在する。
 九郎義経が完全に源氏から離反し、そして関係を修復せぬまま黄泉路へと旅立ったことにより、奥州藤原氏と源氏の対立の図式もまた、修復の適わぬものとなっていた。保持していた神の力が消え去った今、財と兵を蓄えた奥州との対立は源氏に西国を構う隙を与えない。
 そして平氏は、滅亡を回避すべく打ってきた禁じ手の後始末に追われている。未だ五行に帰れぬ、怨霊達の、言葉は悪いが始末に。
「御所が焼かれて、形骸化どころの話じゃなくなってたんだがな陰陽寮も。それに陰陽寮も安部家と加茂家の世襲が過ぎて、実力のある陰陽師ってのはもう数える程しか居ねぇんだよ。だが、まあ、連中にはそれでも知識はあるからな。全く能力がないってわけでもない」
 その数少ない陰陽師を無理やりかき集めて、平家一門は人知れず鞍馬山の山中の洞穴に、怨霊を封じた。意思を持たぬ、大量生産の怨霊も、一体一体ならばまだしも陣を形成する程の数となっては、陰陽師に浄化は不可能だった。
「ただ封じているだけでは限界も訪れましょう。ですが今はただ封じることしか出来ませぬ。怨霊が何がしかの被害を京に齎せば、それは総て黒朝の咎として受け止められてしまうのです」
「それは……」
 苦渋に満ちた時子の面持ちに、朔は口ごもる。そうだとは、その顔を前に言うことは出来ないが、違うとはやはり口が裂けても言えなかった。
 平家が怨霊を使役していたことは紛れも無い事実だ。
 時子はよいのですよと儚く微笑み、そしてその優しい眼差しを朔へと向けた。
「だからこそ、そなたの目覚めを心待ちにしておりました」
 神子殿と呼びかけられ、朔は眉を顰めた。
 その呼び名は、神あってこそのもので、今の朔には似つかわしくない。
「尼君様。私は確かに嘗ては神子と呼ばれるものでしたが……私に力を与えてくれた神は、もうこの世界のどこにも、その欠片さえ存在しません」
 朔はそっと己の髪を辿る。襟足に届くほどには伸びたその髪に、嘗てあった馬酔木の花飾りは無い。九郎に託し、ヒノエが受け継いで鎌倉へと言伝られたそれが最早完全に失われた事を、朔は知っていた。手元に一厘だけ残していた花弁が、跡形も無く消え去った事実が、それを示している。
 しかし時子はゆったりと頭を振った。
「そうとも言い切れぬのです」
「ですが……」
 言いさした朔は再び口を噤む。ざわりと、肌が粟立った。本能的な何かが朔の肌を刺激する。身構えるその瞬間を待っていたかのように、それは矢のように、落ち着いた佇まいの房へと踏み込んでくる。



 それは、今は亡き兄が朔に寄越した、今となってはたった一つの兄の形見。


 飛来した炎を、扇が撫で上げる。繊手に携えられた扇は開かれ様に水気を纏い、撫でた炎を瞬く間に霧散させる。立ち上る蒸気が天井へと上っていく。
 全く無意識にそれだけのことをやってのけた朔に、分かっていて時子は驚きを隠せない様子だった。
 それ以上に驚いていたのは、やってのけた当の本人。朔は炎を払ったその姿勢のまま、呆然と扇を見つめて硬直する。
 その傍らで、将臣が大きく笑った。
「お前な、いくら何でも唐突過ぎんだろ」
「押し問答より余程話が早いし、分かりやすかっただろ?」
「そりゃそうかもしれねーが……」
「朔に何かあったらどうするつもりだったんだ」
「全くだぜ」
 軽口に肩を竦めながらふらりと気負い無く、炎を放った青年は朔に歩み寄る。
「へーえ。寝てる間に随分綺麗になったね。こうなってくると、惜しいな」
「死にたいのか、テメエ」
 朔の顎へと伸びようとした青年の手を、将臣が叩き落とす。その背後では将臣の弟が肩を竦めている。
 朔は呆然と、己へと炎を放って見せた青年の名を呼んだ。炎を放ち、そして朔が水気を発動させるよう仕向けた青年の名を。
「ヒノエ殿……」
「分かったろ?」
 そういってヒノエは、猫のように目を細めて朔の顔を覗き込んだ。




打ち捨てられた〜番外。六波羅黒朝御所にて。
……うーと。出来たら五話には収めたいんですが、無理かなあ。