夢路・四





「白い龍神は……この地を、捨てたの、だわ」



 有川譲ははきとその言葉を紡いだ女から、知らず目を逸らした。全く意識しないままのその動作は、無意識故にその言葉が譲の中の何かを正確に突いたことを示していた。
 ヒノエは内心で小さく舌を打った。
 その言葉の主――朔がそれを意図して言葉を紡いだわけではないことは、ヒノエにも重々分かっていた。分かっていたし、先の戦いよりこちら眠り続けていた朔にとって、現在の譲の不安定を把握しろと望む事もまた無理な話なのだとそれもまた知っている。それでも、苛立ちを感じずにはいられなかった。それもまた、無理も無い事実でもあった。

 神が――そして、その神に属する、神子が。

 未だ思い人の面影を捨てきれぬ譲にとって、そして考えると言う事に無駄なほどに――ヒノエからすればその思考の深さは無駄でありいっそ有害でさえあった――長けた譲にとって、朔の言葉は余りにも痛い。彼女が神子であり、そして譲の思い人であった存在の、対だからこそ。
 それが事実だからこそ、その言葉は譲に残酷すぎる。
 捨てられたその中に、己が含まれているのだから。

 そして捨てたのは、神ばかりではないのだから。

 ヒノエは平然とした態度を装いながらも明らかに挙措に不審さが滲む譲をじっと見つめた。同種の、しかしもっと突き放した視線を、その兄が譲へと向けている。考えることは同じだなと、それにヒノエは肩を竦めた。
「ま、その辺の話は後でもいいんじゃない? 目の前に、怨霊の巣窟があるって事、忘れないでくれよ」
「……そう、ね」
 少しの沈黙の後に、朔は静かな口調でそう言ってそっと首を振った。物思いを振り払うその仕草に、ヒノエはふうんと小さく鼻を鳴らした。それだけで思考を振り払えるのは、恐らく朔がその事実に今気付いたわけではないからだろう。きっと朔は弁えていた。それを言葉として意識する事が無かっただけのことなのだ。
「……やっぱ問題はおぼっちゃんの方なんだよな」
「ヒノエ殿?」
 踏み出した足をふと止めて朔が振り返る。それにヒノエは薄く笑うのみで答えに変えた。聞くなという意思表示を弁えない朔ではない。困ったように少しだけ微笑んだ朔は、それ以上ヒノエに何を問いかける事もなく、静かに正面へと向き直った。
 その視線の向かう先にあるのは、
「結果、だね」
 ヒノエは凡そ人の耳には届かないだろう程の小声でそう呟いた。



 満ちる怨嗟の木霊に、朔の足は幾度も止まりかけた。その都度、無意識に朔は将臣の袖を頼り、将臣もまた極自然に揺らぐ朔を受け止める。人目も憚らずと眉を顰めるには、状況は余りに過酷過ぎた。
 結界の入り口に到達する頃には、朔の顔色は紙よりもまだ白く、足取りは蝸牛の如く重くなっていた。
 ごつごつとした岩肌に整然と幾枚もの札が貼られ、縄によって境界が張られている。その死者と生者を分つ結界の狭間に、穏やかな顔立ちの青年と、やはり柔和ないっそ女性的な顔立ちの少年が鎮座している。その姿に、朔はその状況にありながらも、微かな笑顔を浮かべて見せた。
「敦盛殿」
「朔殿。よくお目覚めになられた。……本当に、よく……」
 唇を噛み締め声を詰まらせる敦盛に代わり、その隣の青年――平経正が言葉を引き継ぐ。
「よくお目覚め下さいました。そしてこの祠を――眠る事の出来ぬ死者の坩堝を、訪って下さったことに、心より感謝と――遺憾を申し上げる。黒龍の神子よ、生前、そしてあなたが眠られる前に知己を得る事叶いませんでしたことを、残念に思います。斯様な場所で、斯様な存在として名乗りを上げる無礼を、どうかお許し願いたい。私は、平経正……八葉として白い龍の神子に仕えたこの敦盛の、兄にあたります」
 言って深く頭を下げる経正に、朔は己も静かに礼を返した。
「経正殿、私は嘗て黒龍の神子であったもの。神がこの地より……失われた今、私は最早神子とは呼べぬものです。どうぞ朔と、名をお呼びください」
 この地より――その不自然な間に、経正は気付かない。再び深く頭を下げ、優雅な動作で立ち上がった。きちりと乗せられた烏帽子は、中背の経正が立ち上がってもその先端を天井に掠らせることはない。それなりに大きな洞穴だった。
 誘われるままに、一向は綱の境界を超える。人の身になんらかの付加はかからない。だが朔だけが微かに眉を顰めて見せた。
「……霊力は、このようにも使う事が出来るのですね」
「お分かりになりますか」
「はい」
 苦笑する経正に、朔は深く頷いた。怪訝そうに、将臣が二人を伺う。視線を受けた朔は、専門的な事は分かりませんけれどと前置いて、只人の目には何もないように見える空間へと手を伸ばした。
「とても強力な結界ですけれど、張ることそのものにはさしたる霊力を要するわけでも無いようなの。そのような術ならば、きっとこの場に術者が常時待機して結界を張り続けねばならないでしょう。ここに張られている結界は、そう、仕組みとでも言えば良いのかしら」
「仕組み?」
「ええ、結界そのものはきっと強力でさえないのでしょう。ここに張られている結界は約束事のみです……生者以外は越えられないという約束事。それを糊塗して強めているのは……封じられているもの達の霊力……つまりは怨念、と呼ぶべきなのね」
 封じているものの力が強ければ強いほどに、結界は強固となる。その約束事。それだけが陰陽師達の施した結界なのだ。
 へえ、と、ヒノエが何処か呆れたような声で応じる。
「つまり何かい。ここの怨霊は、自分で自分を封じてるって、事?」
「……そうだ」
 低く短く、敦盛が答える。苦渋を滲ませる声は、ヒノエの皮肉に敦盛が気付いている事を意味していた。
「怨霊の力は負より生ずる。生ずる負が、我らをこの牢獄により強く縫い止める。篭められる苦渋がまた強く我らを戒めるのだ……故にこの結界は破られぬ」
 よく出来ているのだと告げる敦盛の口の端に笑みは浮かばない。朔はきゅっと胸元で拳を握り締めた。白い指にかかる負荷が小さな痛みを呼び、その痛みが朔を現実に縫いとめた。耳にではなく響き続ける凄まじい怨嗟の叫びに囚われぬように。誘われるままに洞穴の中へと足を踏み入れれば、その叫びは一歩ごとにより強く、朔を苛んだ。朔を、そして叫びは彼らがそも、何処までも苛まれている証左でもあった。
 どれだけの残酷さだろう。
 人の争いが彼らを生じさせた。そしてその争いの終結に彼らの存在は不要どころか有害と成り果てた。
 その彼らを、存在するそのものの力によって縛り、縛る事によって苦汁を与え、更に苦渋で縛り上げる。
 負が負を呼び、糊塗する。
 怨霊であると言うことは、ただそれだけで、そこまでの――
「……罪だと、言うの」
 極小さな朔の呟きは、その場の誰の耳にも届きはしなかった。――否、
「そう、罪だと言うのですよ。ふふふ。そうでなければ何故我らは斯様な苦しみの中に閉じ込められねばならぬのです?」
 空を引き裂く、甲高い男の哄笑は、明らかに朔の呟きに対して向けられていた。


「……っ……!」
 叩きつけるような圧力の出現に、朔は着物の胸を掴み止まりそうになる呼気を必死で保った。それを更に、その圧力の主は嘲笑う。扇で口元を覆い、表情を晒さぬように笑うその様は如何にも貴族と言った優雅さを感じさせる。着乱した狩衣も、その乱れまでもが計算されている。退廃的で優雅。その雰囲気は重衡のものと似通っていたが、決定的に違うのは瞳に宿る狂気と憎しみだった。
「ようこそ……死者の坩堝へ。歓迎いたしましょう、神子。そして……父上」
 喉の奥から搾り出される引きつった笑い声が、洞穴にぶつかっては木霊する。揶揄するその響きに、将臣は眉を顰めた。
「俺がお前の父親なんかじゃない事は、お前が誰より知っている筈じゃなかったか?」
「無論のこと」
 ふんと、その圧力の主は鼻を鳴らした。朔の身を襲った圧力がその瞬簡に霧散する。新たな対象へと向けられたその力は、しかし向けられた先――将臣に対しては然したる影響を及ぼさない。負荷の大小は、向けられる側、受け取る側の霊力によってその多寡が決まるのだろう。
 貴族はくくっと喉を引きつらせる事をやめない。何を笑っているのかさえ、最早意識はしていないのだろう。そして笑いの中に愉悦が混じらぬ事にさえ。
「我が偉大なる父上はあなたでは有り得ません。ただ……あなたはその風評を受け入れて一族を乗っ取ったでしょう。くく、生まれ変わりとはよくも言ってのけたものです。ただ姿ばかりを映した偽者に過ぎぬくせに!」
「……一面、真理だな。言い訳はしねえよ。それはお前の真実だろうぜ」
「は。私にとってとはよくも言ったもの。真実は一つしか有り得ません……あなたが父の名を騙り一族を乗っ取ったという、それが真実! そして一族は愚かしくもそれを受け入れた……そう何処までも愚かしい、嘆かわしい!」
 朔はその応酬を注意深く聞き取った。この貴族が、一体誰であるのか、そしてどんな立場なのか、それは言葉からしか読み取れはしない。それ以外の、存在そのものが発する怨嗟の響きは、最早意味成す言葉として朔が認識することは不可能だった。ただ一人、この貴族の怨霊のみが目の前に現れたのならば兎も角、この場には敦盛がおり経正がおり、そして洞穴のありとあらゆる場所に何かが――怨霊が潜んでいる。それら総てが存在するが故に発する怨嗟の響きを、判別する事など不可能だ。
「……平惟盛、か」
 ぼそりとヒノエが呟く。確認するような呟きに、敦盛が頷いた。ヒノエもまた、会話からそれを読み取ったのだろう。
 同じくそれを読み取っていた朔は、その呟きに重なるように、唐突に理解した。
 聞こえている。
 怨霊の怨嗟の声、怨霊が怨霊であるが故に発し続けるその声が、朔の耳ではない何処かに、確実に届いている。幾ら霊力があろうとも、その声を意味成すものとして聞き取る事は、多分出来まい。神子としての能力を、魂に刻んだ朔以外には。
 聞こえる。
 ならば――鎮魂は?
 朔は反射的に己の指を組んだ。印を結んだわけではない、ただ、祈る為に自然な形であるだけだ。
 嘗てしたように、騙りかける。胸の内へと木霊し続けるその怨嗟の叫びに、なだらかに風を吹き付けるかのように。柔らかく、凝り固まり淀んだそれを、僅かでもほぐすかのように。

 お願い、届いて。静まって……!

 願いと共に、淡い光が、朔を――嘗て神子であった女を、仄かに包み込んだ。



 それが、引き金となった。




打ち捨てられた〜番外。痛い、色々。
問題提起。結論は次回持ち越し。ついでにバトルも始まります。