夢路・伍





 閉じた瞼の先に、微かな熱と紅。
 朔に向かって放たれた炎を受け止めたのは将臣の肩から勢いに任せて剥ぎ取られた狩衣だった。惟盛の掌から放たれた火の玉は狩衣に受け止められ、その受け皿にその身を明け渡す。燃え上がる衣が、薄暗い洞穴に紅の光を齎した。
 衣が燃え落ちるまでの僅かな時に、嘗て八葉と呼ばれた者たちは朔を中央に円陣を組んだ。嘗て白い龍の神子にそうしたように。
 将臣が低く笑った。獰猛そのものの獣染みた笑みが惟盛に向けられる。
「俺じゃなく、朔を、狙うわけか惟盛?」
「くく……理由をお求めですか? 分かりきったことでしょう。私どもからどれほどのものをあなたは奪ったと思っているのです。そのあなたから、今度は私が奪うのです、それが報いと言うものでしょう」
「俺の女だから、狙った、か。なあ惟盛、知ってるか?」
 獣の唸りを思わせる含み笑いは、惟盛のそれとは趣を違えていた。低く獰猛なそれには威嚇の意図はあっても狂気は伺えない。裏腹に惟盛が口の端に刻み込んでいる笑みには何の意図もなくただ狂気だけがあった。その狂気がこそ、意図ともいえるのだろう。狂気が、恐怖を覆い隠す。
 怨霊と言う救いがたい存在が本能的に抱える、恐怖を。
 鈍く、斬馬刀の刀身が光った。入り口から入る乏しい光のみが光源の薄暗い洞穴の中で、鈍い白濁の光は凶暴な美しさを感じさせる。
 それは相対する怨霊とは対極に位置する力。生き延びる為に振るわれ続けた力だった。そして美しい力の振るい手は、重い刀身を腰に貯める様に構え、咆哮を上げた。
「言い訳は見苦しいぜ!」
 ざり、と、岩肌を蹴りつけ、擦り付ける音が響く。巨躯に似合わぬ俊敏さで惟盛の懐へ飛び込んだ将臣は、己の腰に溜めた力を、飛び込んだ先に容赦なく振るう。巨大な刀身が洞穴を切断せんばかりに暴れ狂い、びゅっと言う空を切り裂く凶暴な音楽がその場を満たした。しかし刃は届かない。惟盛はふわりと、まるで剣風に乗るように後方へと飛び音も立てずに着地した。
「言い訳……ふふ。我が行為が言い訳と、そう判じられるわけですか、我が父上にあらせられては。くっく。或いはそれは正しいのかもしれません、しかし正しくはない。私が、あなたを絶望の淵へと追いやりたいこの思いに、我が存在の核とさえなり得るこの思いに、些かも偽りなどありはしないのです」
 将臣に向けて翳された扇が、寿命を迎える直前の恒星のような危うい、赤い光を湛える。じわりじわりと大きくなっていくその輝きは、人頭大となった瞬間に扇より飛来する。
 赤は破壊を象徴する色。それが向かう先には、刻一刻と顔色を失い、身体の震えを止めきれなくなった佳人。
「朔ちゃん!」
 ヒノエの手にした小太刀が、己の操る五行と同質のそれを思い切り断ち切り、相殺する。残滓が空気を焦がし、洞穴の中の温度がじわりと上がった。
 決して激しいとはいえぬ、じわじわと手を試しているだけのようなその応酬。得物を携えた者達には煩わしくじれったくさえ感じられる時間。しかしその中央で守られ、そして祈りを捧げようとする嘗ての神子には、それは煩わしくもじれったくもなく――どころかこれ以上ないほどの戦いの時間だった。
 駄目だと、どれほど己を叱咤しようとも震えを止める事は叶わない。
 惟盛が、否、惟盛の立ちふさがる先に在る総ての気配が、ほんの僅かに動くそれだけのことでも、目に映るのはたったそれだけのことに過ぎずとも、その挙措のひとつひとつは鋭い刃となって朔の意識に襲い掛かってくる。
 閉じ込められ、外界に影響を及ぼさぬ代わりにそれ自身が変貌を、募らせた怨念によってより巨大な怨霊となるという変貌を遂げた、数多の怨霊の、数多の嘆き。轟くその声は朔の意識を押しつぶし、叩きのめし、切り裂く。耳で聞くわけではないその声と、身で受けるわけではないその衝撃は、誰にも知られぬままに朔を何処までも追い詰めていくのだ。
 か細い、か細くなっていく願いが、その巨大さに飲み込まれ儚くも消え去る。
 どうぞ静まって、どうか安らかに。
 ほの白い輝きを放っていた朔の身体は、既にその光を失い、ただ震えている。
「……朔殿!」
 ついに膝から力が抜けた。その身を、敦盛が男性としては華奢なその腕で抱え上げる。
 ぎょっと振り返ったもの、ちっと舌打ちを落としたもの。反応は様々でも、次に取るべき行動に対する判断は同じだった。
「……兄さん」
「分かってる」
 すり足で近寄ってきた弟の囁きに、将臣は目の前の敵をにらみ据えたまま短く答える。
 引く。
 他に選択肢などない。だが引かせてくれるほどに、この巨大化した怨霊は甘くはない。
 歯噛みしたその瞬間、悲しげな、そして酷く静かな声がした。
「ただ、今はお眠り下さい惟盛殿。私が供せるのはただ一時の偽りの眠りのみなれども」
 ふわりと漂った香の香りが、その場の猛々しさを包み込み、そして怨嗟を、一時慰めた。



 誰の罪?



 色を失った唇が、呟く。そしてそれを最後に、朔の身体からがくりと力が抜けた。



 己を制する為に使っていた香なのだと、経正は説明した。
 一時、飲まれそうになる自我を慰め押さえ込む香は、完全に飲まれてしまっている者には別の効果を齎すのだと。
「鎮魂とは呼べません。そも、私は怨霊の身。同じく怨霊を慰めるなど叶うはずもない。私の香が齎すのは一時の眠り――それも安らかならざる、眠りです。幾度かこの結界を越えようと、少なくとも我ら兄弟を害そうと、惟盛殿達が洞穴の入り口へと押し寄せられた事がありました。無駄とも思いながら使ってみれば……効果は全く異なった形で訪れ、そうして退けられた者は、また更に怨霊として一つ、糊塗された。偽りの眠りは、その眠りに齎される夢によってでしょうか、更に罰を呼び込むのです」
 悲しげに伏せられる経正の目に涙はない。怨霊だから流れぬのか、或いは最早涙など涸れ果てたのか。
 香に齎される偽りの眠りを契機に、一同は一時洞穴を引いた。無論怨霊である敦盛と経正は結界を越えられないが、その境界にまでは出てくることが叶う。意識を失った朔をその場に横たわらせ経正の説明を受けた将臣は、渋い顔で顎を撫でた。
「このまま引いたんじゃお前たちが危ないって、事か?」
「その危険性もありましょう」
 頷く経正に、敦盛が否と首を振る。
「恐らくは、ない。我らは彼らを静めねばならぬ。そしてそれを惟盛殿は理解しておいでだろう。なれば何もわざわざ結界を出ずとも、望むものは自ら結界の奥へとやってくる――つまりは、将臣殿や、朔殿だが。ならば待つだろう。確実でないのであれば、焦れて動かれるようなところもある方だが、確信があれば待つことを厭うような方ではない」
「やられに来るのを待つって? おー怖い怖い。ヤダヤダってほったらかしに出来ないところが辛いね」
 ヒノエが大げさに肩を竦めて見せる。
 そうして一同の視線は、未だ目覚めぬ黒い龍の神子へと集中した。
「鎮魂の光を、感じたな?」
 僅かな沈黙の後に、将臣が口を開く。一同はそれに対して重々しく頷いた。
「確かに鎮魂の光だった。前にも見たことあるし、何より暗い中だからな、朔ちゃんが光ってた事くらいはわかる」
「ならば朔殿は、加護としてではなく、己が力として、鎮魂を行使できるのだと言う事になる、が」
 朔から視線を逸らし、敦盛は言葉を濁した。
 正しく、が、だ。朔に鎮魂が可能だと言う事は朗報ではある。だが同時に、鎮魂を行う前提としての能力が鎮魂そのものを阻害する。
 嘆きを聞き取る力、嘆きに共鳴する力。それがあって始めて、鎮魂は成る。そこにある嘆きと悲しみを受け止め、慰める力が鎮魂であるからだ。
 肥大した怨霊の、恐らくは絶叫と言う呼び方でさえ生ぬるいだろう怨嗟の声。それを受け止めながらの鎮魂がどれほどの難事か。現在意識のない朔の、髪のような顔色と額に浮かぶ脂汗が示している。
「封印とは、訳が違うんだよ、な」
 痛ましいほどのその姿を横目に、ヒノエが呟く。その傍ら、会話に参加していなかった青年がびくりと身を撓らせた。



 誰の、罪?



 何の、罰?



「この地が、神を喪失させてしまったのでは、ないのね。この地は――神を失ったのではなく――神に、捨てられたの、ね」

 黒龍は最後まで神であり続けた。己を生じさせてはならぬと、己の神子に釘を刺しまでした。だが――

「白い龍神は……この地を、捨てたの、だわ」



 朔の言葉が、譲の中で木霊する。
 ずっと、ずっと。それから目を逸らし続けてきた。認めたくなかった。
 白い神がこの地を捨てた事。その白い龍の神の神子もまた、この地を、そして――
「……俺は、俺達は、白龍と先輩に……捨てられたんですね」

 誰の罪か。何の罰か。
 それは――



「誰の罪でもない、誰が受けるべき罰でもないんでしょう。それは受けるべきものが喪失したから、だから俺たちに、彼らに、襲い掛かっているだけの、ものなんだ……!」



 白い龍の神と、その神子の――罪であり、罰なのだと。



打ち捨てられた〜番外。痛い、更に。
譲の第一次結論。一旦退却。


 陸