出会い





「……一つお聞きしても宜しいですか?」
「ええ、構いませんよ? なんですか?」
「どうして、私、ここで働くことになってるんでしょう?」
「どうしてって、僕が働いて欲しいと言って、君がうんと言ってくれたからですが」
「…………」
 長い、長い沈黙が降りた。
 朔は己の頬に片手を当てて、天井をじっと見つめ、その言葉を何度も何度も反芻した。何度繰り返そうと他に意味などなく、そしてそこに哲学的な何かを発見できるほどに謎と独創性に溢れた言葉でも在り得ない。単純に端的な事実に過ぎない。
 それでも何度も何度も繰り返し、そして朔は小首を傾げた。
「どうかしていたのね、私」
 その結論は、悲しいほどに正しかった。



 人生に於いて。
 赤の他人を掬い上げて、その直後に痴漢を働く男と出会うという事態は、あまりない。
 つか、頻繁にあって溜まるか。
 女の一人歩きがある程度の危険を伴うのは、何時如何なる時代でも変わらない。その程度に幾許かの差があるだけだ。そして現在、キョウと言う土地でのその『程度』は、生命の危険と言う、レヴェルで判断するならば特Sとでもつけるのが妥当なところにまで悪化している。
 突如としてこの土地を襲い、そしてただ襲うに留まらず定着した怪異。跳梁跋扈する元は人であった『覚醒者』達は、本来ならば同胞であったはずの者達を、本能に任せて容赦なく襲った。
 迂闊にもその特S地域を一人で出歩いていた朔は、あわやその爪にかからんと言うギリギリのところを掬い上げられた。そして掬い上げたその救いの手に、あろう事か痴漢を働かれたのである。
「……どんな冗談なの本当に」
 頬に手を当てて、朔はほうっと息を吐き出した。その様子を、頬にくっきりと赤い痕――それがもみじ型であることなど言うまでもない――浮かばせた男は気にも留めない。卒のない動きで朔の前に淹れたてのコーヒーを供し、己も差し向かいのソファーにゆったりと腰を下ろした。
「まあ冗談のようだとは、僕も思っていますが」
 ひくりと朔の頬は引きつった。自覚があるのかだとか、誰のことだと思っているのだだとか、痴漢を働いておいてなんだその態度はだとか、言いたいことは山のようにあるが、恩人――しかも命のだ――と言う一事が朔の口に蓋をする。その葛藤に気付いているのか居ないのか、男は寛いだ様子でカップを傾けている。
 ああもう片方の頬にももみじを付けてやりたい。
 朔がその衝動と戦わねばならなかったのは、年頃の娘としては余りにも当然だった。
 葛藤と衝動との戦いで妙な顔で沈黙している朔に、男はさてと切り出した。
「さっきも言いましたが、女性の一人歩きはもう昼日中だって無理ですよ。いや、男でもでしょうね。武装していたところで、獣化覚醒者は武器の扱いに慣れない男が引き金を引くよりも早く爪を出してくるでしょうから」
 はっと朔は居住まいを正した。
 色々と無理やり風呂敷に包んで棚の上に押しやって兎も角、朔が迂闊に出歩いていて襲われたのは事実である。
「はい。迂闊でした」
「何か外出しなければならない事情でもありましたか?」
「食料の……調達に」
「君が?」
 男は驚いたように目を見張った。朔は硬い表情で頷く。
 キョウは現在多くの機能が麻痺している。流通もしかり、今では真っ当に営業している店のほうが稀だ。周辺都市から派遣されてきた軍が、幾許かの食料の配給を行ってはいるが、到底足りるものではない。
 キョウの住人は生きる為に食料を調達しなければならない。主として覚醒によって営業がままならなくなったスーパーマーケットや、無人と貸した家、ビルなどから、である。つまり略奪だが、これはまだお行儀のいい方の例だ。伝のあるものなら軍から物資を横流しさせたり、或いは無人ではない民家に押し入ったり――挙げれば限がない。警察機能がとうきょう区からの派遣軍によって辛うじて維持されている程度の状況の無法地帯では無理もない。
 だが、当然の事ながらそうした調達行為は、若い娘には向かない。男が意外の念を顕にしたのも無理からぬことだった。
「まさかと思いますが……」
 訊ねかけて言葉を濁す男に、朔は苦笑を返した。何を言い淀んだのか、余りにも明白だったからだ。
 まさか一人で暮らしているのか、家族はどうした。
 それが『まさか』だった常識は既に覆されている。家族の総てか覚醒によって死亡、或いは獣化して一人で暮らすことになった若い娘。決してそれは、珍しい事態ではない。それでも意識はそう簡単には切り替わらず、思わず訊ねてしまったのだろう。
「いいえ、一人と言うわけではないんです。ただ……雑事に働けるのが私しか居ないだけです」
「お嬢さん?」
 眉間に皺を寄せた男は、苦笑したままの朔の顔を、ん? と言うように覗き込む。圧力を感じるその動作に、朔は僅かに身を引いた。
「それは、状況的に一人より余程厳しいと、僕には思えますが」
「ええ、状況的には」
 朔は頷きながら、はっきりと認めた。繰り返すその言葉が『但し』を意味することに気付いたのだろう、男はふむと言いたげに顎に指を当て、朔が言葉にしなかった『但し』を口にする。
「妥当ですが、妥当とも言い切れませんね。確かに一人は心理的には厳しいのでしょうが、今このキョウで、誰かと共に在るということがどれだけのリスクか、分からないわけではないでしょう?」
「……そうね」
 肯定するしかない言葉に、しかし朔の返事は一拍遅れた。
 確かに、何時誰が、どんな形で『覚醒』するか分からない状況での誰かとの生活は危険でないわけがない。ないがしかし、朔に限ってはそれは危険では在りえない。
 朔は能力覚醒者だ。覚醒の気配を感じ、その覚醒を押さえ込むことが出来る。だから、朔に限っては、誰かと共に暮らすことは危険ではない。その誰かにとっても、朔にとってもだ。
 だが、それを口にすることは憚られた。兄に硬く口止めされているからだ。
『不用意に、能力を人に話しちゃいけないよ。お前の能力が利便性に富んだものでなくても、だ。他地区から軍が入り込んでいるだろう? 名目上は治安維持だろうけどそれだけが目的じゃない。常識的に考えてもそれは在り得ない。キョウには確実に異能力を持ったものが存在するんだからね。それの採取が目的だと考えるのが妥当だよ。いいかい、朔。お前の能力は軍事には転用できない、日常を便利にするものでもない。それでも異能事体が、お前を危うくしかねないんだ、いいね? 絶対に、能力覚醒者ですなんて、人に言っちゃいけない』
 沈痛な面持ちで言い諭す兄の姿に、やはり同じく硬い表情で、朔は頷いたのだ。
「だから……あなたは一人でいるの?」
 朔は物思いを振り切るように頭を振り、室内を見渡した。
 殺風景な部屋だった。灰色の壁の殆どは棚に埋められ、薄汚れた棚のガラスの奥には、乱雑に押し込められた書類や本、何某かの瓶が見て取れた。朔の腰掛けているソファー以外には特に家具もない。招じ入れられた時に潜った扉とはまた別の扉の存在が、他にも部屋があることを示しているから断言は出来ないが、他に人気があるようには思われない。
 男はなんでもないことのように頷いた。
「だから、と言うわけでもありませんが。突詰めれば、だから、なのかも知れませんね」
 ただ、と、男は言葉を継ぐ。
「意味としては、真逆です。さて、申し訳ありませんが嫌な来客があるようですから、ここに居てください。声は出さないで、外を覗こうともしないで下さい。危ないですからね」
 微笑んで立ち上がった男を、朔は呆然と見送った。



 考えてみれば、朔は真っ当に入り口を潜ってこの部屋に入ったわけではない。本来の入り口が、朔の潜った扉かどうかは分からない。と言うか、確実に違うのだろう。
 二つある扉のうち、朔が潜った方ではない扉に、男の背は消えたのだから。
 そして男が消えた扉は、締めそびれたのだろう、糸のように細く、僅かに開いている。
 朔はごくりと喉を鳴らした。
 思えばあんまりな事体にすっかり忘れていたが、自分は見ず知らずの、全く名前すら知らぬ人間の懐に在るのだ。それがしでかしてくれた痴漢行為に、あの男を『男』として警戒してはいたが、全くの見ず知らずの誰かなのだという根本的な警戒心は働いていなかった。
 俄かに湧き上がったそれに、朔は男の出て行った扉を食い入るように見据えた。
 覗くなと男は言った。嫌な来客とも言った。危険だとも取れる発言だが、それは男の主観であって、朔にとってどうなのかは分からない。
 そもそも、あの男が朔にとってどういう存在なのか――敵か味方か――それからして、分からないのだ。
 再び喉を鳴らした朔は、言われたとおりに物音を立てぬよう気をつけながら、そっと扉に近づいた。僅かに開いた扉は、視界こそ朔の期待通りにはならなかったが、その先で行われている応酬を、朔の鼓膜に届けるには十分だった。



「さて、どんなご用件です?」
「皮肉か。分かっているのだろう。時間を無駄にするな」
 ゆったりと微笑む男に、訪問者は苦虫を噛み潰したような顔をした。やりとりからも、顔見知りであることが伺える。
「君も、僕の返事は分かっている筈でしょう? ここに足を運ぶこと事体が無駄だと、いい加減学習したらどうなんです?」
「俺が一人で来るということの意味もわからないか」
 一拍の間。吐息が男が笑んだことを示す。それに対する来客者の反応もまた、間を置いた。
「背信行為一歩手前と言うわけですか。成る程、時間を無駄にしたくないわけですね。君にも猶予はないと?」
「分かっているなら、頷け。俺に友を売るような真似をさせるな」
「大した価値もない商品でしょう。なんでそう、僕程度の能力者に拘るんです?」
「本気で言っている……訳ではないな」
「当たり前でしょう。遠まわしの拒絶です」
「お前は超人的な能力を発揮する覚醒者ではない。嗅ぎ付けられれば確実に捕縛されるんだぞ!」
 バンと、高い音が響く。訪問者が何某かを殴り付けた音だろう。
「そうですね。ですが僕は軍に飼われるつもりはありませんよ」
 その声は静かに、部屋を満たした。



 朔は早鐘を打つ胸に手を当て、じりじりとドアの側から後退した。
 覚醒者。そして、軍。
 聞こえてきた言葉に眩暈を覚える。逃げ出したい、逃げ出さねばと、急く意識とは裏腹に、朔の足は後退以外の動作を示さない。否、示せない。
 既に確認してあったことだ。ここから外へ出るには、今しがた聞き耳を立てていたドアの向こうへと行かねばならない。他に逃走経路はなく、そしてその逃走経路の真っ只中で、朔が『逃げねば』と強く感じる内容の会話が交わされている。
 キョウがこの事態に陥ってから幾度も感じた『途方に暮れる』と言う感覚。打つ余りに痛みさえ感じ出した胸を押さえ、朔は大きく息を吐いた。
 幾度も味わった。しかしこれほど心細い状況で感じたことは、嘗てない。
 朔はただおろおろと、己を閉じ込めている監獄を見回した。
 逃げなければ。でもどこへどうやって。
 堂々巡りを繰り返す思考は、選択肢の乏しさにいよいよから回る。
 何も出来ないままに、その男の笑顔が朔の前に再び現れたのは、だから、
「さて。何から聞きたいですか? お嬢さん」
 全く不思議でもなんでも無いが故に、その男にもまた、お見通しのことだった。



 その余りにも飄然とした態度に、朔は眉を潜めた。
 朔は決して愚かではない。この男が、朔が盗み聞きを働いていた事実を見通している――寧ろ聞かせようとしていた――事に気付いた。表情も険悪になろうというものだ。
「……あなたは、何がしたいの?」
 こんな小娘にわざわざ知られてはならないような事実――軍関係者と関わりがあり、そして己が能力覚醒者であると――知らせて、一体何を。
 男は苦笑を返す。
「何、といわれましても。僕にとっても、能力覚醒者は貴重だって、ことです」
「何の話……」
「警戒しなくてもいい。僕は自分を売らないのと同様に、君の事だって売ったりしませんから」
 にっこりと微笑まれ、朔は口元に手を当てた。飛び出そうとした悲鳴を押し殺すことには成功したが、遠まわしにこの男の指摘した事柄を否定することは、その動作では適わない。蒼白になる朔に、男はあくまで優しく、言葉を継いだ。
「普通もう、女の子が一人で出歩くなんて出来ませんしね。それに君は反応を返しそびれたでしょう、誰かと暮らすリスクを僕が指摘した時にね。リスクを肯定しながらリスクを負っている矛盾の答えは、まあ、一つですし」
「…………」
 朔は答えない。答えられない。ただ身を強張らせて食い入るように男を見据えるのみだ。男はそもそも朔に反応を求めていないようで、ずばりと事実を指摘したその口で全く違うことを語り出す。
「軍は、この事態の収拾には興味がないんですよ。調査はしていますが収拾させるつもりは無い。自地区がこの事態に陥った時の収拾手段さえ分かれば、キョウがどうなっていようと構わないんです。……流石に僕はそうも無関心にはなれませんし、無関心でないなら、能力覚醒者の知己は必要です。だから、君を売ったりはしませんよ」
「……無関心じゃない、って」
 呆けたように、朔は無意識に言葉を紡いだ。側近くにある男の顔を、先刻とは違ったまなざしで食い入るように見つめる。男は、困ったように微笑んだ。
「僕は諦めてはいないって、事ですよ」



 一瞬先には知った顔が見知らぬ獣に変わる。
 その現実を拒否することを。
 誰も彼もが諦めかけているそれを。



 それは、甘美過ぎる、誘惑にも、似て。
 強く、朔の胸を押した。



「……一つお聞きしても宜しいですか?」
「ええ、構いませんよ? なんですか?」
「どうして、私、ここで働くことになってるんでしょう?」
「どうしてって、僕が働いて欲しいと言って、君がうんと言ってくれたからですが」
「…………」
 長い、長い沈黙が降りた。
 朔は己の頬に片手を当てて、天井をじっと見つめ、その言葉を何度も何度も反芻した。何度繰り返そうと他に意味などなく、そしてそこに哲学的な何かを発見できるほどに謎と独創性に溢れた言葉でも在り得ない。単純に端的な事実に過ぎない。
 それでも何度も何度も繰り返し、そして朔は小首を傾げた。
「どうかしていたのね、私」
 その結論は、悲しいほどに正しかった。

 そして同時に正しくない。そう遠くない未来に訪れる甘い時間を思うならば。



弁慶×朔、近未来パラレル馴れ初め。
……本編書きたくなる……ああああ、どうしようどうしよう。パラレル設定はこちら